『ファブリカ』の扉絵(6)−カール5世の果たせなかった夢
前回まで数回にわたり、アンドレアス・ヴェサリウスが『ファブリカ』を出版してから亡くなるまでの様子を紹介しました。今回は時代を遡り、彼が仕えた神聖ローマ帝国皇帝カール5世(1500-1558年)について触れてみたいと思います。
ところで、欧州の王様は誰が何をしたのか、覚えにくいと思いませんか? 「ルイ○世」だの「ヘンリー○世」だの、「○世」の部分が違う人物がたくさん出てきますし、同一人物でもどの国の王を指すかでその数字が変わったりします。高校の世界史が全く苦手だった私は、その原因には王様の名前問題もあったのではないかと思っています。そこで彼の生涯を、改めておさらいしてみます。
まず難敵は「神聖ローマ帝国」ですね。ヴォルテールが「神聖でも、ローマ的でも、帝国ですらない」と揶揄したように、その実態が分かりにくい。ましてその皇帝は何をする人なのか。西洋史の入門書などを読むと、ドイツ、オーストリアの諸国を中心に構成された二重帝国で、当初はカトリックの守護を任じていた、と理解できそうです。その皇帝はローマ教皇の戴冠を受け、領域内の軍隊、税制などを統括していたようです。
「カール5世」というからには「カール1世」がいるのでしょうか。いました。カール大帝のことですね。800年に神聖ローマ帝国を興したフランク国王です。その後「2世」「3世」は同じカロリング朝、かなり時代が下って「4世」はルクセンブルク家、そして我らが「5世」はハプスブルク家の出身です。
このハプスブルク家も複雑で分かりにくい。調べてみると、起源はスイス山中の小貴族でした。歴史の表舞台に現れたのは1273年。当主のルドルフが、選帝侯たちから御し易いと見られて皇帝に選ばれたことでした(皇帝名はルドルフ1世)。しかし当時暴れていたボヘミアを平定し、ウィーンに居城を移してからハプスブルク家は勢力を伸ばしていきます。そして15世紀前半からは皇帝の座を世襲するようになりました。
カール5世はそのハプスブルク家の嫡子として、1500年にフランドルのヘントで生まれました。なぜフランドルなのか。ハプスブルク家が支配するブルゴーニュ公国を父親のフィリップ4世が治めていたからです。ブルゴーニュといえば、言わずもがなワインの銘醸地ですね。しかし当時は商工業が盛んなフランドルが実質的な中心地だったようです。一方、母親フアナの両親がカスティーリアとアラゴンの国王であったことから、カール5世は16歳の時に両国を合わせたスペインの国王になります(同国王としての名称はカルロス1世)。そしてスペイン・ハプスブルク家を興すとともに、父方の祖父マクシミリアン1世の死去に伴い、父親のフィリップ4世はすでに亡くなっていたため19歳で神聖ローマ帝国皇帝を継ぎました。
当時のスペインと神聖ローマ帝国を合わせた版図は絶大なものですから、彼はその領地を守るため欧州中を駆け巡り、戦争に生涯明け暮れることになります。例えば北イタリアに侵攻してきたフランスと。ウィーンに攻めかかるオスマントルコと。帝国内のプロテスタント勢力の制圧にも乗り出します。しかしルター派諸侯の反乱は収まらず、ついに1555年のアウクスブルクの和議で彼らの信仰の自由を認めざるを得なくなります。
長年の激務と極度の過食で健康を害したカール5世は、翌1556年に退位します。そこで問題になるのが継承問題。オーストリア・ハプスブルク家の当主になっていた弟フェルディナントか、厳格なカトリック教徒の息子フェリペか。選帝侯たちが選んだのはもちろん、プロテスタントに宥和的な弟フェルディナントでした(皇帝名はフェルディナント1世)。帝国はその後、オーストリア・ハプスブルク家によって継承されていきます。一方、長男のフェリペはスペイン・ハプスブルク家を継いでスペイン国王に(国王名はフェリペ2世)。その統治下、スペインは新大陸からもたらされる金銀をもとに絶頂期を迎えます。
カール5世は神聖ローマ帝国皇帝としてカトリックによる欧州統一を目指したものの、その夢はかないませんでした。ハプスブルク家も分裂し、息子フェリペが皇帝の座につく道もなくなりました。晩年はスペインのユステ修道院に隠棲し、退位から2年後に亡くなります。16世紀という史上稀に見る激動の時代に、栄光と失意に見舞われた、劇的な人生でした。
最後に余談をひとつ。1993年に欧州連合(EU)が発足した際、「カール5世以来の夢が実現した」「カール5世は欧州統一の先駆者」といった言説がEU内で起きたと記憶しています。カール5世は宗教で、EUは経済でと、その手段は異なります。しかし欧州統一の夢は伏流水のように人々の間で生き続け、カール5世はその象徴的な存在だったのかもしれません。次回(12月15日)も引き続きカール5世について触れます。
(原藤健紀)
2025年11月15日

No comment