『ファブリカ』の扉絵(7)−過食の皇帝、その背後にあるもの

 

 今回は神聖ローマ帝国皇帝カール5世の健康問題について触れたいと思います。

 カール5世は大変な大食漢で、1日4食、しかも1食当たりの量が桁外れでした。チャールズ・D・オマーリーの『ブリュッセルのアンドレアス・ヴェサリウス』には、この皇帝とよく夕食をともにした帝国書記官の記録が紹介されているので、それを少し引用します。

 食事はいつも4品で構成された6皿だった。(中略)肉入りの巨大パイ、猟で獲った野鳥の大切り肉、汁がたっぷり入った料理は退けられようとも、陛下は子牛の頭の部分のローストビーフか、あるいはそれに類したものは食された。(中略)パンを大きくちぎって口いっぱいに詰め込むと、やおら料理に攻めかかる。ナイフをあちこちに突き刺し、自身の指を使われることもよくあった。その間、もう一方の手は顎の下で皿を支えていた。(中略)喉が渇くとビールを3杯だけ飲まれる。それから食卓の脇に立つ医師団へ合図を送られると、彼らは壁際の戸棚から銀製瓶を2本持ってくる。そして通常の1本半は入るクリスタルのゴブレットにワインを注ぐ。皇帝は2、3回息をつぎながらも、まるで1杯のビールを飲むかのようにそれを最後の一滴まで飲み干されるのである。

 この「夕食」は深夜の食事のことで、夜8時頃にはすでに1食とっています。凄まじい食欲、というより過食症でしょうか。このような食生活を続けていたため、カール5世は25歳で早くも痛風の発作に襲われます。以来、生涯にわたって痛風に苦しみ、その痛みから重要な会談や会議がキャンセルされることがよくあったようです。

 皇帝の健康問題に責任を負っていたのはコルネリウス・ファン・ベルスドルプというオランダ貴族出身の侍医でした。彼のもと構成された医師団は食事を節制するよう進言するものの、カール5世がそれに従うはずもありません。自分の思い通りにならないと癇癪を爆発させ、その矛先はいつもベルスドルプに向かっていました。医師団は次第に皇帝の望む通りの食事を認めるようになり、治療はグワヤク樹という薬用植物を煎じて飲ませるくらいのものでした。

 医師団の中には当然ヴェサリウスもいました。ただあまり責任を負わない立場だったようで、カール5世にこっそり酒を渡したりしていたようです。オマーリーの著書では、ある英国人学者がカール5世から聞いた話として、「彼(=ヴェサリウス)は世界で最も素晴らしい医師だ、なぜなら私に水差しに入った肉(すなわち酒)を十分与えてくれるからだ」という逸話が紹介されています。もっとも、これはヴェサリウスが皇帝の歓心をかっていたというわけではないでしょう。食事指導は医師として当然のこと、ただ信頼関係を保つため時には患者のわがままに目をつぶることも必要だったということだと思います。

 カール5世の健康問題についてもう一つ。ハプスブルク家では近親婚が繰り返された結果、肉体的、精神的に虚弱な人物が多く生まれました。この連載第3、4回目で紹介したカルロス王子もその典型でしょう。カール5世の場合、痛風の他にも胃腸症状や不眠に長年悩まされ、晩年はうつ的な症状が現れるようになります。上述の過食体質や激昂しやすい性格も虚弱さの表れだったのかもしれません。再びオマーリーの著作から。

 皇帝の健康問題に陰鬱な影を落としているのは、スペインの母親フワナからの遺伝形質だった。(中略)ポルトガル王女だったフワナの祖母は狂死しており、フアナはおそらくその不幸な後継者だった。(中略)その母親が彼の性格に知らず知らずの間に影響をもたらしたのかもしれない。

 最後に皇帝の肖像画を紹介します。現在ミュンヘンのアルテ・ピナコテークに所蔵されている作品で、描いたのは皇帝お気に入りのティツィアーノ派。アウクスブルクで1548年に制作されました。皇帝はこの時48歳。椅子の肘掛けには杖が立てかけてあり、痛風で左脚が不自由だった姿を晒しています。表情を見てみましょう。顔色はやや青ざめ、疲労感、不安感が漂っているようです。その目は威厳に満ちているというより、どことなく硬直さ、頑迷さのようなものが窺えます。

 この年は同地で重要な帝国議会が開かれています。シュマルカルデン戦争(1546〜47年)でプロテスタント諸侯に勝利した皇帝は、この議会で「アウクスブルク仮信条協定」を締結。その内容はプロテスタント諸侯にカトリックの教義を遵守するよう命じるものでした。しかし彼らの抵抗はなおも続き、この絵が描かれてから7年後には同じ地で「アウクスブルクの和議」が結ばれることになります。自らの健康問題と帝国内の不透明な情勢、それに苦しむカール5世の姿がこの絵にはよく現れていると思います。

次回(1月15日)は、カール5世と日本との関係について。

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