『ファブリカ』の扉絵(2)−同時代の医師たち

 ヴェサリウスが活躍した16世紀中頃とはどのような時代だったのでしょうか。

 同時代の医師には、ノストラダムスやパラケルススといった学者がおり、当時の医学が占星術や錬金術と深くつながっていたことが窺えます。

 ただ、ヴェサリウスが彼らと交流があったという記録は見当たりませんし、彼自身が占星術や錬金術を用いていたことはないと思います。

 知己だったのはアンブロワーズ・パレ(1510-1590)ですね。それまで医師(=内科医)より数段低く見られていた外科医の地位を飛躍的に高めた歴史上の人物です。フランス王アンリ2世が1559年、馬上槍試合で目を負傷した際、ヴェサリウスはパレとともに治療にあたっています。

 同時代の医師として、意外なところではフランソワ・ラブレーも挙げられます。ラブレーは1530年からモンペリエ大学に在籍し、古代ギリシャの医人ガレノスやヒポクラテスの著作を講義しています。当時一般的だったラテン語ではなく、ギリシャ語原典での講義で、評判を呼んだそうです。

 ガレノスらの著作が原典に即して盛んに研究されたのも、この時代の特徴のようです。それまで大学での医学講義といえば、多くの教授は高椅子にふんぞり返り、アラビア語経由でラテン語に翻訳された医学書を意味もわからず読み上げるだけでした。そのありさまに若きパラケルススやヴェサリウスらは失望し、厳しい批判を行なっています。

 その頃の欧州では、依然としてペストや梅毒が猖獗を極めており、その制圧に旧来の医学は無力でした。そのことが医学の原典回帰への気運を高めたのかもしれません。そしてこれは私の想像ですが、プロテスタントの勃興に対抗する形でカトリック側に「正統」と「異端」を峻別する動きが起こり、それが医学界にも影響したように思われます。ガレノスの著作は当時、最も重要な正典とみなされていました。

 しかしヴェサリウスは、実際に人体の解剖を重ねる中で、ガレノスの著作には誤りが多いことに気づきます。そして『ファブリカ』の中で「ガレノスはサルやイヌの解剖で代用し、人体の解剖はしていない」と指摘しました。

 これに対しアカデミアの中から強い反発が巻き起こりました。その急先鋒に立ったのが、パリ大学教授のヤコブス・シルヴィウスです。脳の「シルヴィウス裂」など、今日の医学用語にも名を残す歴史上の解剖学者です。

 シルヴィウスは、ヴェサリウスがかつて同大で医学生であった頃の師であり、ガレノスの信奉者でもありました。こともあろうに我が弟子がガレノスを批判したと受け止め、ヴェサリウスを「狂人」「中傷者」と激しく罵倒します。ただ、ヴェサリウスの評価が高まる一方、シルヴィウスの批判は次第に支離滅裂になり、彼の評判を落としていったようです。

 『ブリュッセルのアンドレアス・ヴェサリウス』によると、ヴェサリウスにはガレノスを貶める意図はなく、ただ誤りを指摘しただけとされています。シルヴィウスに対しても尊敬の念を抱いており、彼からの罵倒にほとんど反論はしていません。

 ちなみに『ファブリカ』の扉絵を改めて見てください。解剖台の左下にサルが描かれていますね。そしてここには写っていませんが(モバイル版では写っています)、右下にはイヌもいます。私はこの扉絵をはじめ見た時、「この解剖講義があまりに評判なので、サルやイヌも見に来たというのか?」と思わず笑ってしまいました。しかし『ブリュッセルのアンドレアス・ヴェサリウスの著作における図表』によると、もっと深い意味があったのです。これらの動物はガレノス医学を表しており、ヴェサリウスはそれよりも高い段に立って実際に人体を解剖している。扉絵はそれを示しているのだそうです。

 『ファブリカ』の第2版(1555年)が出てから3年後、家庭医を務めていたカール5世が亡くなります。その息子のフェリペ2世はスペイン・ハプスブルク家を相続したため、ヴェサリウスは彼に随行してスペインへと向かいました。

 以上は、オマーリーらの著作に加え、種村季弘の『パラケルススの世界』(青土社、1977年)、フランソワ・ラブレーの『第一之書 ガルガンチュア物語』(渡辺一夫訳、岩波文庫、1973年)などを参考にしました。

 スペインに行ってからヴェサリウスが巻き込まれる事件については次回。

(原藤健紀)

2025年8月27日

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