『ファブリカ』の扉絵(5)−『紅の豚』の島で何が起きたのか

 カルロス王子が頭部に怪我を負ったのは1562年4月。その2年後の1564年3月にヴェサリウスはエルサレムへの巡礼に旅立ちます。それまで信心深さなど窺わせなかったヴェサリウスがなぜ巡礼に向かったのか。伝記『ブリュッセルのアンドレアス・ヴェサリウス』でオマーリーは、かつて教授を務めていたパドヴァ大学に戻る口実だったのではないかと指摘します。

 背景にあったのは、王室のスペイン人医師たちとの深刻な対立でした。ヴェサリウスが、スペインに反乱を起こしつつあったフランドルの出身であったこと、自分たちが信奉するガレノス医学を尊重しないこと、にもかかわらずフェリペ2世が自分たちよりも彼を重用したことなどから、スペイン人医師たちの嫉妬、反感をかっていました。

さらにこんな噂が欧州中を駆け巡ります。あるスペイン貴族が亡くなり、ヴェサリウスが家族の了解を得て剖検したところ、まだ心臓が動いており、結果的にその剖検で死亡した。ヴェサリウスはその家族から宗教裁判に訴えられ、死刑判決を受けたものの、王室側のとりなしで何とか刑罰は免れ、エルサレムへの巡礼で罪を償うことになった、というものです。

 とても信じられない内容ですが、このような噂が出ること自体、ヴェサリウスがスペイン社会から排撃されていた証拠だと言えます。王室付家庭医の職を辞することはフェリペ2世が認めないことは明らかなため、巡礼を口実にしてスペインを出国する許可をようやく得た。それがオマーリーの見立てです。

 こうしてエルサレムまで確かに行くのですが、その帰途、ヴェサリウスを乗せた船は嵐に遭遇してしまいます。そして漂着したのがギリシャの西部、イオニア海のザキントス島でした。そう、宮崎駿監督の映画『紅の豚』で、主人公のポルコ・ロッソが隠れ家にしていた入江のモデルとなった島です。ここでヴェサリウスは急病に倒れ、1564年10月15日に亡くなります。あまりに突然のことでした。

 『ブリュッセルのアンドレアス・ヴェサリウス』では当時の記録として2つの資料を挙げています。まずはピエトロ・ビザーリという人物が書いた歴史書から。

 彼(=ヴェサリウス)はイタリアへの帰途、不運なことに向かい風を受け、ザキントス島の海岸にたどり着いた。そこで突然、重大な病に襲われた。泊まったのは寂しい土地の、薄汚れた木賃宿だった。そこには介抱をする人もなく、彼はわずかの間に惨めな死を迎えた。その死の少し前、ヴェネチア船が島に寄港し、一人のヴェネチア人金細工師が島内をぶらついていて、不運なヴェサリウスが病に臥せっているところをたまたま知った。この男は同情してすぐに島人たちに助けを求めたが、疫病の流行があったので彼らは疑い深く、またおそらく人間性や親切心に欠けていたため、何ら介抱することなく彼を死なせてしまった。

 次はジョルジュ・ブッヒャーというニュルンベルク人からの聞き伝えをもとにした手紙から。

 船はまる40日間、嵐に翻弄され、陸地に着くことができなかった。乗船者たちのうちある者は糧食不足により、またある者は水不足により病気にかかった。ヴェサリウスは、死ぬと海に放り込まれることに驚き、最初は不安から、次には恐れから病気になってしまった。そしてたとえ自分が死んでも他の者たちのように魚の餌にはしないでくれと懇願した。船は海の中を転げ回るように彷徨った末、ようやくザキントス島に到着した。ヴェサリウスはすぐさま船から飛び降り、町の入口まで辿り着くとそこで地面に倒れ、亡くなった。同船していたニュルンベルクからきた男は、彼の記念碑として石をその場に置いた。

 二つの記録は内容が全く異なり、どちらが事実に近いのか(あるいはどちらも事実と異なるのか)判断がつきかねます。共通しているのは、船が嵐を受けてザキントス島に漂着し、ヴェサリウスはそこで病を得て急死したということ。墓がどこにあるか現在も分かっていません。栄光に満ちた医学者の、あまりにも寂しい最期でした。

(原藤健紀)

2025年10月15日

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